2024年
ーーー5/7−−− 槍ヶ岳を墓標に
長女が孫を連れて帰省したので、孫たちと一緒に光城山(ひかるじょうやま)へハイキングに行った。我が家から、車で20分ほどの場所に登山口がある。登山道が良く整備され、ゆっくり歩いても1時間ほどで登れるので、地元で人気のある山である。山頂に立つと、北アルプスの山々が一望できる。眼前に常念岳がそびえているのだが、その頂上から右に下がった常念乗越の上に、槍ヶ岳の穂先がちょこっと見える。北アルプスの麓に位置する安曇野で、槍ヶ岳が望める場所は珍しい。逆に、北アルプスの山脈から、ちょっと距離がある松本市街地では、槍ヶ岳を望める場所がところどころにある。奥まった場所にある山岳は、むしろ離れた場所からの方が見えやすい。近いと前山の後ろに隠れてしまって、見えないのである。
槍ヶ岳の頂上を眺めて、あることを思い出した。
母が存命中に、亡き父の墓参りに関して雑談をしたことがある。御殿場の富士霊園は遠いから、墓参に行くのが大変だと言ったら、母は「槍ヶ岳の頂上に遺骨の一部を埋めたでしょう。だから、槍ヶ岳の山頂が見える場所で手を合わせればいいのよ。家の近くにそういう場所があるって言ってたわよね」と返した。山頂に遺骨を埋めた話は2006年8月の記事「弔いの登山」を参照願いたい。
母は、槍ヶ岳を父の墓標だと思えば良いと言ったのである。この意外なアイデア、理詰めでドライな考え方に、私はびっくりした。そのような事を、思ったことも無かったからである。ちなみに母は、登山に全く縁が無く、山岳に関する興味も知識も持たない人であった。だから、余計に驚いた。
ーーー5/14−−− 落下傘遊び
私には、十歳以上離れた従弟がいる。先日、息子がその従弟と会食の席を共にしたそうで、電話でその時の話を聞かせてくれた。従弟は、「子供の頃、收さんに遊んで貰った思い出がある。特に楽しかったのは、落下傘を作って遊んだことだった」、と述べたそうである。当時私は高校生だったと思う。従弟と遊んだ記憶はもはや薄れているが、ときどき落下傘を作って遊んだことは憶えている。薄い布を円形に切り抜き、周囲の何ヶ所かに糸を結び付け、糸の端を束ね、重りを付ければ出来上がり。布を折りたたみ、糸でからげて丸め、空中に放り上げると、落下する途中で傘が開く。それまでスーっと落ちていたものが、パッと傘が開くと急に速度を減じて、しずしずと落下する様は、不思議な美しさがあり、何度も飽きずにやったものだった。
この連休に、長女の一家が遊びに来た。事前に、孫たちと遊ぶメニューを考えた。国営アルプスあづみの公園、光城山ハイキング、ハンモック、テントなどがリストアップされたが、従弟とのエピソードで思い出した落下傘も、加えることにした。
今回は、布ではなく、ポリ袋を切り開いたシートを使った。糸は、工房にあった下振用糸がちょうど良い太さだった。一個目は私が作り、それを試しに使ってみた。重りをどれくらいにするかが、一つのポイントである。孫たちは小さなぬいぐるみを使おうとしたが、それらでは重すぎて落下傘の効果は表れない。4グラムほどの小さな木切れがちょうど良かった。最初は地面から投げ上げたが、なるべく滞空時間を長くするため、事務所に上がる階段の上部から投げるようにした。落下傘が開くと、孫たちはキャッキャと叫んで追いかけた。
その後、自分たちで作らせた。上の子は小4なので、手際よくサッサと作る。小2の下の子は、少々間違えたりしたので手伝ってやった。できあがた落下傘に重りの木切れを付けたら、彼女らは鉛筆で人の形を書き込んでいた。再び裏庭に出て、投げて遊ぶ。丸め方の加減で、開かずに地面まで落ちることもある。それを見て、「今の人、怪我をしたかもね」などというコメントが発せられた。
学校の授業で、タブレットなどを使っている世代である。便利なITを、日常的に勉強やゲームに使っている彼女らが、こんな原始的な遊びに食い付くだろうか。事前にはそんなことを気にしたが、心配は無用だった。単純素朴な落下傘遊びが、結構気に入ったようであった。
大阪の自宅に戻った後、長女からメールが入り、孫たちが穂高の滞在中に経験したことは、「どれが一番かきめられないくらい、みんな楽しかった」らしいと述べてあった。そして、上の子が日記に書いたのは、一番思い出に残っているのはパラシュートだったと。それを聞いてじいじは、とても嬉しかった。
ーーー5/21−−− 停電時の機転
5月16日の朝8時ちょっと前に、突然電気が消えた。たぶん停電(電力網のトラブル)だと思ったが、確信は無い。ひょっとしたら我が家の内部での電気トラブルかも知れない。もし内部のトラブルなら、いくら待っても電気は戻らないから、状況を確認する必要がある。
夜なら、周囲の住宅を見て、灯りが消えていれば停電だと分かる。しかし今回は朝だから、外界の様子から判断することはできない。
ブレーカーが落ちるような電気の使い方はしていないが、念のためブレーカーを調べてみたら、落ちていなかった。しかし、我が家にはもう一つブレーカーがあったはずである。二世帯住宅として使っていた頃、電源が二系統になっていたので、大元のブレーカーが電線接続部の建屋外壁に設置されていたのである。ただし、今でもそれが生きているかは、記憶が曖昧であった。それは金属製の箱に入っていて、鍵を使わなければ扉が開かない。それを確認しに行くのも面倒だし、確認したところで、停電かどうかの事実が明白になるかどうか、ピンと来ない気がした。
そんな感じで悶々としていたら、カミさんが「工房の電気を調べて見たら?」と言った。なるほど、工房は電源が別系統になっている。だから、工房の電灯が点かなければ、停電であることは明白である。
早速工房へ行って電灯のスイッチを入れたら、点灯しなかった。それで、停電であることが結論付けられた。その後カミさんが中部電力に電話を入れて確認したら、この地域の一部で停電している事が判明した。復電の見通しについては、調査中ということで、情報を得られなかった。
結局、30分ほどして復電した。突然に、何ら悪びれる様子も無く、部屋の電灯が点き、テレビの画面が現れた。後で聞いたところによると、倒木が電線に掛かって停電になったらしい。その場所が何処かは、知れなかった。
それにしても、工房の電気を調べて停電の判断をするというカミさんのアイデアは、優れていたと思う。正直言って、私はそこまで気が回らなかった。それを褒めたら、カミさんは、「あら、当然のことじゃないかしら。普通に思い付くことでしょう」と言った。
私は、平常と違う状況になると、つまり非常事態になると、燃えるタイプだと自認している。その割には、事が起きた時に機転が利かないようである。以前、洗面所の水道管が破裂して、水びたしになった時もそうだった。私は不凍栓を締めることしか頭になく、それが上手く作動しないのでパニックになった。しかし、カミさんは水道管が敷地に入る地点にある量水器の元栓を閉めることを提案し、それで最悪の事態は避けられた。
普段は些細な事でオタオタすることがある彼女だが、いざと言う時は私より頼りになる存在かも知れない。
ーーー5/28−−− 80歳ですか?
5月の連休に、帰省中の長女家族と国営アルプスあづみの公園へ行った。公園内の施設の中に、クラフト体験ができる教室があった。孫娘がステンドグラスをやりたいと言うので、申し込んだ。他に利用者はおらず、申し込んだその場で作業が始まった。指導員は年配の男性である。子供たちに作業をやらせている合間に、雑談をした。関西で定年退職を迎え、安曇野に移住したそうである。私も30年ほど前に首都圏から移り住んだと話したら、男性は「あなたは何歳ですか?80は行ってないと思うが」と言った。これにはいささかギョッとした。私はこの3月に71歳になったところである。10歳も上に見られるとは、はなはだ心外であった。
その場では平静を装ったが、ステンドグラスが終わり、施設から出ると、家族に不満を述べた。「あの人は目がおかしいのじゃないか。私がそんなに年寄りに見えるか?」と言ったら、一同は異口同音に、「そんなことはないから、気にすることはない」と返してくれた。ただ長女は付け加えるようにして、「ある程度の年齢になると、若く見られると怒る人もいるから、多めに言うのかも知れないわね」と言った。あまり納得が行く説明では無かったが、そういう可能性もあるかと思い、不満を静めた。
洋楽の作曲家、バッハやヘンデルの肖像画を見ると、白いかつらを被っている。以前何かで読んだ話によると、当時のヨーロッパ社会では、白髪の老人は人生経験が豊かで知恵がある者の象徴とさたので、それにあやかって若い人も白いかつらを被ったのだとか。あちらでは現在でも、裁判官などの職業では、白いかつらを着用するしきたりが残っているところもあるらしい。
しかし、我が国では、実際以上の年齢に見られて喜ぶ人は、まずいないと思うが、如何だろうか。